シュウシャインの周坊
友達になれない男達のつながり

一人でいることは嫌いではありません。どちらかと言えば好きなほうだと思います。何をしてるかといえば、まあいろんなことをしていますね。本を読んだり、ネットを徘徊したり、音楽を聴いたり、カレーを作ったり。最近ではヘルニア対策として、軽く運動したり。このようにやりたいこと、やるべきことはたくさんあるわけです。一人万歳です。とはいえ「ずーっと一人で生きていく権利を与えます」と言われても、まあ……断りますね。憧れないわけではありませんが、孤独感に襲われた時はそばに誰か居て欲しいです。自分勝手な言い分ですが。そんなわけで、「シュウシャインの周坊」はかなり響く作品でした。

この物語の主人公は「手下」はいても「友だち」「相棒」は存在しない「バイニン」の世界に生きる男。全てが勝負につながり、「胸を打ち割った話などナンセンス」な世界に生きることに疲れ、友だちを欲したとき、周坊という少年に出会う。しかし、バイニンの世界に生きすぎたのか、友だちではなく相棒として周坊を育てるはめになる。それでも博奕を通じていろんなことを教えながら友だちになろうと努力するが、互いに不器用な感情をぶつけ合い始め、周坊は男の元を去ります。ある日、男は荒みきった周坊と雀荘で再会する──。こんな感じの男だけの物語ですが、ある種の愛情が存在している物語です。

主人公と周坊はよく似ています。どちらも孤独を嫌っているのですが、よりかかる相手もいないし、よりかかってくれる相手もいません。特に周坊はまだ子どもで、博奕でも人間関係でも我慢することができず、力を抜かずにぶつかっていきます。男も周坊との距離を詰めたいと願っているのですが、彼が生きるバイニンの世界から抜けることもできず、周坊をしっかりと受け止めることができません。

多分この二人の関係は、友だちというよりも家族、兄弟だったんですね。男の方はこの後「ホモと深い関係になった」と語っていますが、この時点の周坊を見る目はあくまでも「兄さん」です。周坊も最初はおとなしくしていますが、徐々に反抗する機会が多くなり、結局離れてしまいます。周坊は完全に「兄さん」に頼りたいと願っているのですが、男にはその役割は重すぎたのでしょう。はっきりいって、それはもう「父親」の役割ですからね。とはいえ、周坊が去ってしまった後も気にかける様子は、まるで父親のようです。再会した雀荘で、へたくそなコンビ麻雀をする周坊を見た男の感想は、思い通りに育たなかった息子への想いなのかもしれません。

私が手元においていたらもっと格好いい悪党にしていたろう。

シュウシャインの周坊 – ギャンブル党狼派

格好わるい悪党になった周坊を見るに見かねた男は、「格好いい悪党とはこういうもんだ」とばかりに周坊を何度も陥れます。男にすれば、愛のムチ、みたいな感覚なんでしょうか。そこには厳しさだけではなく、優しい眼差しもありますし、自分が上にいるという余裕も感じられます。腕白な弟であり息子である周坊を気づかうことで、男は人間として大きくなっていったのかもしれません。予想できなかった周坊の行為に、狼狽し腹を立てても、周坊が子どもである所以を思い出し、少し嬉しくなったりしてるあたりは、完全に父親の感情だと思います。ただ友だちが欲しかった男は、結局友だちを手に入れることはできませんでしたが、自分を頼って甘えてくる、繊細な息子のような存在を手に入れたわけです……。人生なかなか思い通りにはいきませんね。

友だちというのは、ある部分では家族の結びつきよりも強く、そのくせ断ち切ることが簡単です。ある時には受け入れてくれるし、ある時は完全に拒絶されたりします。性別や血のつながりを越えた、「ただ気が合う」という一点で結ばれた関係だからこそ、そのような極端な反応を受け入れられるのかもしれません。周坊の甘えと怒りは、家族にしかぶつけられませんでした。家族というのは友だちが拒絶したことを、受け入れてしまいがちです。いいとか悪いとかは場合によるでしょう。しかし、真っ先に家族に向かう甘えは、あまりいい方向に自分を運んではくれなさそうです。

──友だちは一人いればいい。

とても大切な人に、最近言われた言葉です。この感想を書いていて、僕なりにこの言葉の意味がわかったような気がします。

2006年02月09日(木)

読書 /

Text by pushman