もし僕らのことばがウィスキーであったなら
熟成させて良くなる……かもしれないもの

二十歳を過ぎた頃(当たり前ですが…)、とある事情でワイルドターキーをストレートで飲む事にはまり、一人自宅で記憶を無くしたことがあります。それ以来ウィスキーを飲む事は止めましたが、おっさんと言われても文句が言えない年齢になった今でも、“大人”な飲み物という漠然とした憧れは持ち続けています。

最近お酒を飲むときは、麦酒、ワイン、梅酒ぐらいなのですが、「もし僕らのことばがウィスキーであったなら」を読むと、「ウィスキー飲みたい…ウィスキーが飲みたいよ!」となります。この本は春樹さんがアイルランド、スコットランドに行って酒を飲みまくるという、なんとも羨ましい紀行文です。写真も多く使われており、撮影は奥さんの村上陽子さん。善し悪しは僕には分かりませんが、安西水丸さんのイラストにそっくりな春樹さんのピンぼけ写真はなんかいい感じです。

もし僕らのことばがウィスキーであったなら

しかし主役はあくまで文章。春樹さんの食べ物や飲み物の描写力は、やはりすごいです。この本で一番強烈なのは、シングル・モルトを生牡蠣にかけるという、アイラ島独特の食べ方のくだりです。僕は元々牡蠣が大好きなので余計魅力的に思えるのかもしれませんが、今読み直しても文字通り生唾が出ます。はっきり言って、アイラ島に行く予定が無い牡蠣好きの人間は読むべきではありません。

他にもとても魅力的なお酒の描写がたくさんあり、「あぁ、ウィスキー……」となります。春樹さんも酔っぱらっているのか(失礼)、いつも以上に饒舌な感じでらしい比喩が「これでもか」と綴られます。ちょっと鼻持ちならない感じもしますが、きっとお酒が本当においしかったのでしょう。もちろん「酒や食い物がうまい」という事だけが書かれている訳ではなくて、各地の醸造所を訪れ、そこで出会った人間味にあふれる素敵な人々との邂逅も書かれています。

そういった文章もおもしろいのですが、僕がこの本で一番好きなのは、冒頭の「前書きのようなものとして」という文章です。

もし僕らのことばがウィスキーであったなら、もちろん、これほど苦労することもなかったはずだ。僕は黙ってグラスを差し出し、あなたはそれを受け取って静かに喉に送り込む、それだけですんだはずだ。とてもシンプルで、とても親密で、とても正確だ。しかし残念ながら、僕らはことばがことばであり、ことばでしかない世界に住んでいる。僕らはすべてのものごとを、何かべつの素面(しらふ)のものに置き換えて語り、その限定性の中で生きていくしかない。でも例外的に、ほんのわずかの幸福な瞬間に、僕らのことばはほんとうにウィスキーになることがある。そして僕らは——少なくとも僕はということだけど——いつもそのような瞬間を夢見て生きているのだ。もし僕らのことばがウィスキーであったなら、と。

もし僕らのことばがウィスキーであったなら – 村上春樹

これがウィスキー以外だとどうでしょう? 麦酒だとごくごく飲まれてすぐに忘れられそうだし、日本酒や焼酎はなんだか必要以上にぐいぐい踏み込んで来られる気がします。ワインはなかなかいいんじゃないかと思いますが、なんか気の効いた一言を返されそうで場合によっては面倒くさそうです。うん、やはりウィスキーですね。氷も入っていない、常温のウィスキーが入ったグラスを近づけたときの強い香り、そして焼けるような喉越し。飲み下した後にはお腹の底から体全体にじわりと広がる熱さ……やはりことばを咀嚼する苦しさや喜びを表現するのには、ウィスキーがぴったりだと思います。

どんなに気心の知れた人でも、ことばのやり取りで自分の考えや気持ちを完璧に伝えることは本当に難しいです。というか、そんなことは不可能な気がします。完璧なことばなんて存在しないのです。でも、ことばそのものでは伝わらないことでも、ことばとことばの間に生じた沈黙を意識したときや、肌が触れ合った一瞬の静寂の中で、なにかが伝わることがあります。それは一所懸命に相手に伝えようとことばを尽くした時だけに起こりうることなんだと思います。

実際にウィスキーを飲み交わすことで互いの気持ちを理解し合う事ができたら、ほんとにいろいろと楽になるでしょうね……とはいえ、誰それ構わず「まあまあいいからこれ飲んでよ。僕の気持ちだから」なんて押し付けられると、かなりめんどくさい、困った世の中になります。ということで、ことばがウィスキーの代わりになるように丁寧にことばを選んで、こつこつ推敲して、熟成させた方が良さそうです。

2010年12月26日(日)

読書 /

Text by pushman