甘美なる来世へ
唯一無二の文体

『ナイン・インタビューズ』で紹介されていた、『甘美なる来世へ』を読みました。最初のページで度肝抜かれましたが、人によっては最初のページを目にしただけで「とても読めない」と判断してしまうかもしれません。次のページにいくまで「。」はおろか「、」もないんです。ある意味親切な作家で、最初のページで読者に警告をしている節があります。翻訳者の柴田さんもそこら辺をうまく処理してくれているな、と思います。後書きで、「通常の翻訳であったら愚の骨頂でしかない原則を定めて訳した」と書いています*1

話の内容は……よくわかりませんでした(笑)。なんせ話が脱線するなんてレベルではなく、途中まで脇役だった人が流れでそのまま話を引っ張っていって、そこでまた脇役が登場し気がつくと今度はそいつが主役になっていって……というのが繰り返されます。しかも話が全然元に戻らないんです。かと思えば急に随分前の中心人物が出てきたり。そんな展開なので名前が出てきてもどういう人物であったかすぐには思い出せません。おまけに登場人物が出てくるたびに、きちんとフルネームで紹介し続けるから、ややこしさは増すばかり。

『ナイン・インタビューズ』付属のCDを聞いた印象では、「ちょっと悪そうなおっさん」という雰囲気でしたが、こんな変わった文章を書く人とは思えません。相当しゃべり好きなのか、ほとんど一人でしゃべってます。おしゃべりな人に悪い人はいません。おそらくいい人でしょう。

読んでるとどうしても町田康の文章を思い出してしまいました。もちろん町田康と同じではないのですが、町田康を好きならはまるんじゃないかと思えます。比較しても意味はないんですが、町田康より読みにくく、笑いのポイントも町田康とは違います。なんというか、似ている作家ではなくて、同じ匂いのする作家とでもいいましょうか。ある事柄を細かく、しつこく描写するところとかはそっくりです。ただこちらは句読点が少ないので本当に読みにくく感じるところがあります。そして、ちょっとしかめっ面になりながら「えと……こいつはあいつだったよな」とか考えながら読み進めていると、突然こんな風に笑いのツボを刺激されます。

アスキュー夫人はポーチから矢のように駆け降り屋敷の向こう側に回って裏手のドアに飛んでいった、というか矢のように駆け降り飛んでいくような錯覚は生じさせたもののそのように駆けたり飛んだりする上で一般に必要とされる速度を生じさせる努力は怠った。両腕を動かし両脚を動かし頭を振りふうふうはあはあ激しく息をするといった具合に加速度的高速運動の表面的特性はすべて提示しながらも加速度自体はほとんどまったく産出せずおよそいかなる高速運動も達成しなかったのである。かくして少なからぬ威勢よさをもってポーチを離れ屋敷の裏手に回っていったもののアスキュー夫人の獲得した慣性は限りなくゼロに近かった。

甘美なる来世へ

おかげで、2回ほど「クッ」と声を出して笑ってしまいました。電車の中で……。

ということで、この作家も電車やドトールコーヒーなど、人が大勢いる場所で読むのは危険きわまりない作品を書くという事です。つまり「小刻みに肩をふるわせている」「下唇をやたら噛みしめている」「必要以上にうつむいて本を読んでいる」「頻繁に本から顔を上げにやつきながら周囲を確認している」なんて事態を経験したくないのであれば、電車内などでは読むのを控えたほうがいいという事です。例にあげた項目は町田康、T・R・ピアソンを読んでいると否応無しに襲いかかってくる生理現象ですが、T・R・ピアソンの場合はさらに「険しい表情から一気に笑顔」が加わります。

僕自身の作品へののめり込み度を計る目安として、「電車を降りそびれる」というのあるのですが、この作品は2回ほど降りそびれそうになりました。なんとか無事に、目的の駅で降りることができたのは、やはり読みにくいという要素が大きいからだと思います。

散々町田康を引き合いに出しましたが、でもそもそも町田康チックな文章といっても町田康を知らない人に対して町田康の文章の面白さを説明するのは不可能という認識を僕は持っているので、T・R・ピアソンが町田康に似ているのではなく同じ匂いのする作家とでもいったところでしょうかとかいっても全然まったく説明になっていないので、でも誤解を恐れずに言えばなどと事前に言い分けをしながら簡単に言えばT・R・ピアソンは町田康チックな文章を書く訳ではなくもちろん町田康を真似しているわけでも無いのであるが、町田康を先に読んでしまった僕としてはT・R・ピアソンは町田康チックな文章を書くという言い方が一番楽なT・R・ピアソンの文章の説明という事になるのであるが、町田康を知らない人に町田康チックといくら説明しても全く理解出来ないわけで、町田康チックな文章を知らない人のために町田康チックな文章をわかってもらおうと町田康チックな文章を真似するといいかも、ハハ、おもろ。などと真似をしてみたものの真似した事でそれ自体が非常に読みづらい文章になってしまって、せっかく町田康チックな文章を説明しようと頑張って町田康チックな文章を真似しても町田康を嫌いな人はもちろん町田康を知らない人にも町田康チックな文章は読んでもらえないという事になり、その度合いは伝えようとすればするほど強まるのであって、はっきりいって町田康の文章を真似する事で町田康チックな文書を説明することは不可能であろうと思いながらも頑張って真似し続けているのはいいとして、読みにくいのは町田康チックな文章を真似しようとしているからではなく僕自身に文章力が無いためなのではないのかという疑念が出てきて、そういうものは一度気づいてしまうともうお終い、みたいなところがあるんだなぁ、マイッタマイッタ、ってあれ。これだと町田康ではなく庄司薫じゃん、とちょっとばかし町田康テイストに持ち直そうと試みたところでもはやその疑念が晴れる事は無いのであるし、そもそも町田康チックな文章を真似する必要は全く無くてどちらかといえば真似するべきなのはT・R・ピアソンの文章であるが、なにも真似したからといって町田康チックな文章を書くT・R・ピアソンの文章の説明にはならないのではないということにやっと気付いたがせっかくここまで書いた事だし必要以上に自分に優しい自分の性格を今後は最大限にいかそうと思いたった直後でもあるのでこれをもってT・R・ピアソンの書く町田康チックな文章の説明をほとんど完全に自棄になって書いた、というかキーボードを叩いた、というかキーボード上に設置されているキーを叩いた、というよりは押したのであった。

1. 「原文1センテンス=訳文1センテンス」「読点の数と位置を大体同じにする。」だそうです。

2004年06月19日(土)

読書 /

Text by pushman