パルプ・フィクション
ものの見方を変えてくれた物語

気がつけば映画を観るのが好きになっていたけれど、新しいとか古いとか、洋画だ邦画だとか関係なく、とにかく手当たり次第に映画を観るようになったきっかけははっきり覚えている。
学生時代のアルバイト先で知り合った、同い年の友達に薦められた『パルプ・フィクション』だ。

お互いが好きな映画の話で盛り上がることが多かったが、ある日「『パルプ・フィクション』っていう作品がもうすぐレンタルされるで。監督2作目やのにカンヌのグランプリ取ってんて。めちゃ楽しみや」と心底嬉しそうにいう話しかけてきた。
正直に言えばカンヌ映画祭のことなんて知らなかったけれど、「あいつが勧めるならおもしろいんやろな」と思い、帰り道に近所の小さなレンタルビデオ屋に寄ってみるとなんとその日がレンタル開始日。最新作なのに面陳されていなかったその作品を、粗筋も読まずに借りることにした。

『パルプ・フィクション』のレコード、パンフレット、チラシ、シナリオブック(英語)
『パルプ・フィクション』のレコード、パンフレット、チラシ3種、そしてシナリオブック(洋書)。シナリオブックは英語の表現を日本語に翻訳する際に失われる妙味を教えてくれた。

帰宅してVHSのビデオデッキにテープをセットし、小さなブラウン管のテレビで観始めた。
「どういう話やねん」と構えながら観始めたが、かっこいい奴らの意味が有るような無いようなくだらない、でもおもしろい会話にはまり、あっという間に物語に没頭した。時間軸を組み替える構成のおもしろさに一人で興奮し、物語に対して初めて「終わって欲しくない」と思っていた。
ふいにビデオデッキのカウンターの数字が目に入り、もうすぐ物語が終わる時間だと知らされた時、物語が終わることに対して初めて「哀しい」と感じたことを憶えている。

以来VHSで、DVDで何度も観たが、先日「午前十時の映画祭」のおかげで初めて映画館で観ることができた。
パンプキンとハニーバニーの絶叫は続いているのに一瞬静止する映像。そして流れる『Misirlou』。画面からせり上がってくる『Pulp Fiction』のロゴ。
全てにしびれ、誇張ではなく鳥肌が立った。大画面、大音響で観た『パルプ・フィクション』は、一瞬で20数年前に感じたことを思い出させてくれた。

この物語はいろんな変化を僕にもたらした。観たいと思う映画のきっかけに「監督」が加わったり、サントラを購入するようになった。英語にも興味を持ち、英会話に通ったりもした(身にはつかなかった)。一番大きな変化は、物語から教訓や感動みたいなものを求めなくなったことだ。それまでは映画だけに限らず、物語から何かしらの意味を見出して、自分の中に何か残ることを望んでいた気がする。
この物語のおもしろさが、そんなつまらないものの見方を吹き飛ばしてくれた。おもしろければ、それでいい。おもしろいと思ったことを自分の中に残しておけば、なにかのタイミングで役に立ったり、別のおもしろいことと繋がることもあるし、そもそも物語が何かの役に立たなくても、何にも繋がらなくても、全然問題はないのだ。おかげでそれまで食わず嫌いだった類の物語も楽しめるようになった。

「好きな映画は?」と聞かれたら必ず答えの中に含めていた作品だけど、20数年越しの悲願であった大スクリーンで観ることができて、自分がどれだけ影響を受けていたのか思い出し、今まで以上に好きな作品になった。

パルプ・フィクション

映画を観ているという感覚が無くなった、初めての物語。未だにレストランなどでメニューを見ながら「ステーキステーキステーキ……」と呟いてしまうし、ステーキを頼む時は「bloody」と言いたくなる。ため息をつく時はブッチのように二段階に分けている。日常生活まで変えられてしまった初めての物語でもある。

パルプ・フィクション(外国映画英語シナリオ スクリーンプレイ・シリーズ)

使うあてもないのに英語のセリフを知りたくて購入。翻訳で失われてしまったおもしろ味を理解できたし、ドラッグに関する豆知識も知ることができて、本編をより楽しむことができた。

What’s so bad about feeling good?

Update:

Text by pushman

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