終業式
普通の人が持つ文章の力

先日、とある事情があって『ツァラトウストラはこう言った』を読もうと思い立ったのですが、数10ページであえなく断念……。帰宅のお供を探しに古本屋へいったのですが、ぐっとくるものが一つもなく、かといって帰りの電車で妄想にふけるのもいやだったので、さっと目に入った知っている作家、姫野カオルコの『終業式』を選びました。

最初に書かれていますが、この物語の全ては登場する人々の手紙で語られます。主要な人物は高校3年生の3人。高校3年の秋頃から20年後ぐらいまでのお話です。

学生時代、授業中に遠く離れた席の友人に大した用事でもないのにメモ書きを回したりしたことはあると思いますが(最近の若い人は無いのかも……)、物語はそのメモ書きから始まります。それが年賀状になり、ちゃんした手紙になり……というように、ちゃんと思いの込められた文章になっていきます。学校を卒業し無事進学できた人もいれば、受験に失敗した人もいます。手紙の中には自分も何年か前に経験したことや、聞いたこと、言ったこと、やっちゃったことなどなど、いろんな出来事が一通り出てきます。誰でも自分に近い人物を見つけられるのではないでしょうか。そうした登場人物達は少しの幸せを見つけたり、多くのものを失ったりしながら歳をかさねていきます。

そんなごく普通の人々の生々しい生活を、普通見る事の出来ない誰かへ宛てた手紙を見るという特権を読者は与えられています。中には誰にも読まれなかった手紙もあって、すこし後ろめたくなったりしつつも、他人の人生の一部を覗き見るのは相当おもしろかったです。

原田宗典さんが後書を書かれているのですが、手紙(文章)を「書く」ことと、「したためる」事の違いを簡潔に書かれていて、なるほど、と思った次第です。久しぶりにあってよかった解説でした。えらそうですが。

最近手紙なんて書きませんよね。多くの人は。でも文章を書く機会は多いと思うんですよ。メールを筆頭に。携帯電話でも使えるし、PC持ってる人はもっと頻繁にメールを書いたり読んだりしてると思います。いまさら、「手紙っていいもんですよ。メールなんてものは……」なんて事は言いませんが、メールと手紙は違いますよね。なんか。この物語を読んでいて、その違いがわかったような気がします。メールなんて気軽に出せるし、そんなに推敲しないでしょうし、書く回数も多いですよね。それがメールがこれだけ仕事とかにも使われている理由でもあると思