救い出される
僕が狩猟や渓流釣りで恐れること

渓流釣りや狩猟を始めたことで、人を見かけない山道や道無き道を一人で歩くようになった。山登りすらほぼ未経験だったので、虫や野生動物との出会いをはじめ、怖いことはたくさんある。全然慣れない。でも、僕が一番恐れているのは、人気のない場所での人との出会いだ。

釣り人や地元の方との出会いならなんの問題もない。挨拶をして、お別れすればいい。状況によってはちょっとした会話をすることもあるだろうし、そういうことは嫌いではない。僕が恐れているのは『救い出される』に描かれているような、悪を為すことにためらいがない人との出会いだ。

狩猟で山に入る場合、車で行けるところまで入り、そこから徒歩で獣の痕跡を追う。渓流釣りなら川の近くの駐車スペースに車を止めて、入渓する。もちろん車は他の車の邪魔にならないようにする。大抵の場合行き止まりになっているので、転回できるようなスペースは確保しておく。こうした場所に入っていくことは、結構気を使う。余所者だし、釣りはまだしも狩猟に対して良い印象を持ってない人もいる。

どんな場合であれ、トラブルの気配を感じたら引き返す。でも、誰もいないような場所でも、「ここで攻撃的な人に遭遇したらどうしようもないな……」という嫌な想像をしてしまうことがある。

この物語の主人公たちは、冒険のため訪れた森の奥深くでそんな状況に陥ってしまう。社会的な正義や法律など、日常生活を送っている限りは自分を守ってくれると信じるに足る根拠が、全く通用しない場所、そして人間。主人公はそんな状況に置かれたことで、抑圧されていた日常を意識し、そこから解放されることを願う。そして、恐ろしい出来事を体験し、解放される。その過程で、主人公も悪を遂行することになる。

『救い出される』表紙
自然描写は確かに素晴らしい。でも、この帯から想像する物語ではなかった。

僕が「山に入るといろいろと怖いことを想像してしまう」という話をすると、「銃持ってるんだから大丈夫でしょ」と言われることがある。もし無法者と遭遇しても、銃があったら身を守ることはできるだろうという意味だろう。銃を持っていると分かれば相手に対して抑止力にもなるだろうし、いざとなればぶっ放せばいい、というわけだ。

「実包を装填するのは獲物を狙えると確信した時だけ」というルールはさておき、僕は自分の命が危険にさらされたり、人としての尊厳が傷つけられそうな状況でも、銃を護身のためには使えない気がしている。相手がどれだけ危険な悪人であったとしても、人に銃口を向けるというのは、めちゃくちゃ怖いし気持ちが悪くなる行為なのだ。

銃の所持許可を受けるための講習で、「絶対にやってはいけないことのひとつ」として教えられたからではなく、銃口を人に向ける行為を想像しただけで、身体も心も緊張するし、ぞわぞわした不快なものが湧き上がってくる。根本的にビビリだということも、いくらか影響しているかもしれないけれど。

相手も銃を持っていて、殺意を持ってこちらに銃口を向けていたら、僕も銃口を向けるかもしれない。でも、引き金に手をかけることはできない気がする。『戦争は女の顔をしていない(第9話後編)』でも描かれているように、その行為は本当に高い壁を超えないとできない類の行為なのだ。

この物語の主人公は、わりと簡単にその壁を超えたというか、取っ払ってしまったように見える。罪悪感に苛まれ、今までと同じように生きることが難しくなってもおかしくない行いをするのに。それを正当化できる大した確証も持っていないのに。むしろ今までよりも、人生を謳歌しているように見える。

タイトルからカタルシスを覚えるような結末を予想していたけれど、救われたという感覚はあれど、為した行為の代償が無いように見えて、もやもやする物語だった。とはいえ、自分がこの物語の主人公と同じ体験をしたら、同じように事実と異なる物語をうまく作りあげてしまいそうな気もする。そういうことを感じさせられたことも、怖い。

救い出される

自然の中で遊ぶことの魅力と、そこにある悪の可能性も描かれている。これから単独で山に入ろうとワクワクしている人には、あまりおすすめできない。

What’s so bad about feeling good?

Update:

Text by pushman

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